脱サラして辿り着いた三味線職人の道 — 三絃司きくおか 河野公昭さん
夢を追いかけて始めたわけじゃありません。
偶然の出会いや流れの中で三味線の道に入り、気づけば何十年も続けていたんです。
その過程には挑戦や出会い、そして人との縁がありました。
そんな河野さんをご紹介します。
三味線の製作、あるいは修理ということを主にやっておる、いち職人でございます

名前 | 河野 公昭(こうの きみあき) |
生まれ | 1958年(昭和33年)東京都台東区生まれ |
作っている工藝品 | 東京三味線 |
好きなこと | ・お酒を飲みながら仲間と語る時間 ・新しい道具やアイデアを考えること |
略歴 | ・1983年 浅草の職人に弟子入り ・1987年 独立開業 ・1990年 「三絃司きくおか」開業 |
功績・受賞 | ・2003年 葛飾区伝統工芸士認定 ・2014年 東京都優秀技能者(東京マイスター)受賞 |
三絃司きくおか という名前に込めた意味
邦楽の世界で代々受け継がれてきた特別な屋号。勝手に名乗れるものではなく、
重みのある名前なのだそう。
また、屋号の「三絃司」とは、三味線に関わることだけを専門にする職人という意味。
うちは三味線だけを扱ってますよという意味合いで。
「三絃司きくおか」という名前にしたのね
と教えてくださいました。
偶然の出会いから三味線の道へ
子どものころは夢を語るような少年ではなく、ただ父親の工場でブリキ製品をいじったり、そこで働く職人たちの姿を眺めるのが楽しい日々だったのだとか。
大学を卒業して間もない頃、浅草の三味線職人に弟子入りしたのがすべての始まり。
一度は一般企業に就職し、サラリーマンとして数年を過ごしたけれど
心から「これだ」と思える仕事には出会えなかったのだそう。
それから縁があって浅草の職人に弟子入りし、26歳で独立。
今の工房へとつながっていきます。
職人の世界は、一つの仕事を達成するなかで勉強があって、次に進める楽しさがある
これがサラリーマンから職人への道へ進んだ理由。
世襲が多い三味線業界で、まったくの外から飛び込んだ河野さんだからこそ
常識にとらわれず、新しい挑戦を恐れずに進んでこられたのかもしれません。
集中できるのは結局夜なんだよね
河野さんの毎日は日によってリズムが違うそう。
朝仕事自体は、うちは10時からスタートしてね。10時スタートなんで。私自身はいつも7時に起きて、そこから食事したり、なんだかんだして8時くらいからぼちぼち動き始めるの
午前から日中にかけては修理が中心。
竿や皮の修理をしつつ工房全体を見て、事務仕事もこなします。
でも一番集中できるのは夜中。
本当に仕事をやる時っていうのは、11時から3時ぐらいまでやる。夜中に集中できるの。誰も来ないし、いないし
その時にそういう皮を張ったりっていう作業は、その時間を使ってやってる。もう集中できる作業です。夜中の3時まで。毎日やってるわけじゃねえからね。
人の気配が消えた工房の空気の中で、特に神経を使う皮張りの作業に取りかかる。
その音色を決める大事な工程だからこそ、集中できる夜を選んでいるのだそうです。
ときにはお酒飲んでほろ酔いで帰ってきて、10時ぐらいにソファーでゴロゴロ。
11~12時に起きて仕事する時もあるし、そのまま寝ちゃうことも。
お休みについて聞くと、
お休みの日はね。私ほとんど仕事やってんのよね。お休みがない
仕事がたまって、事務処理とかで書類作るとかさ、普段できないからそういう時にやんないといけないし。
お客さんのところに回っても行かないといけないさ。
そういう時間をそこの休みの日にあてて。
休みと呼べる日はほとんどなくても、仕事を楽しんでいるから苦にならないんですって。
世界を飛び回ってでも、いい材料を探しにいく
三味線の材料とかね。もともと材木の部分っていうのはインドなんです。
だけどインドの材料は国有林だから、誰でも買えるわけじゃないんですよ
そう教えてくださる河野さん。
誰でも買えるわけじゃないからこそ、本当に何度も現地に足を運び、
行ったり来たりを繰り返し、ようやく入札にこぎつけたのだとか。
この道を拓くまでにおよそ3年。
その手がかりをつかむのに随分時間がかかった、でもおかげさまでその材料もインドから輸入することができるようになったっていうのが、私にとってこの業界の今あるスタートなんです
現在ではさらに進化し、中間業者を省き、現地での生産にも携わるように。
渡航は年4回ほど。原材料が集まった時点で現地に飛び、必ず自分の目で確かめます。
お休みがないという河野さん、せっかくの海外はどこか観光されるのかな?と思いきや
台湾でも台北とかの大きい町じゃなくて地方都市なので、遊ぶところなんて何もない。
だからご飯を食べる以外は仕事。でもそれでいいんです。満足してますから。
人とのつながりと、次の世代への想い
河野さんが特に大切にしているのは人との「縁」
家元との関わりを通じて支えられ、
「人間的な育成までしていただいた」と振り返ります。
一方で市場縮小や職人不足といった課題も直視。
今までこの業界は400年、500年の歴史の中で、女性の職人なんて数えるほどしかいなかった。でも今はもう男も女も関係ない。そういう人材が出てきたら、きっと業界に勇気を与えると思うよ
弟子の西村さんを「期待の星」と呼び、次の世代へ技をつないでいこうとしているのです。
(西村さんについてはまた別の機会にご紹介しますね^^)
自分が今までずっとやってきてる仕事の延長だったり、あるいはテレビを見てたり、マスコミからのヒントがあったから“こういう形でやったらどうかな”っていう発想なんですよ
日常の中からヒントを拾い上げ、頭の中でアイデアを膨らませることが
習慣になっているという河野さん。
三味線屋なのに、三味線じゃないものをつくる
そうして生まれたのが、三味線の形や特徴を生かした”三味線以外のもの”
ハワイのウクレレから発想を得た「小じゃみチントン」や
けん玉をアレンジした「SHAMIDAMA」などがその代表例。

私も初めて見た時は、三味線の概念を覆されました(笑)
面白い発想がどんどん思いつく河野さんに大事にしていることを伺うと
要するに、話題性を作るっていうことなんです
伝統を大切にしつつも、柔軟な発想で新しい挑戦を続ける河野さん。
その姿勢が、三味線を知らない人たちにも一歩近づくきっかけをつくっているんじゃないかなと思います。
(「小じゃみチントン」や「SHAMIDAMA」の開発秘話もお伺いしたので、それは別の機会にご紹介しますね^^)