日本の食文化を支える器「波佐見焼」とは?
長崎県・波佐見町。
山々に囲まれたこの町から、400年以上にわたって日本の食卓を彩る器が生まれています。
それが「波佐見焼」。
白く透き通るような磁器の美しさと、日常の暮らしに寄り添う使いやすさ。
誰もが手に取れる器として、日本の食文化を支えています。
今回は、そんな波佐見焼の歴史についてご紹介します。
驚異の生産力を誇る日常食器の産地
波佐見焼は、長崎県東彼杵郡波佐見町で約400年以上にわたって作られてきた磁器。
日本の家庭で使われる食器のうち、実に約16%がこの小さな町から生まれているといわれているんです。
人口はわずか1万5000人ほどの町で、なぜこれほど多くの器が作られているのか。
その理由は、早くから確立された「分業制」と呼ばれる仕組みにあるのだそう。
成形・焼成・絵付けといった工程を、それぞれの職人が分担し、効率よく、
そして丁寧に仕上げていく。
その協働のしくみが、波佐見焼の発展を支えてきました。
また、波佐見焼の最大の特徴は、磁器特有の白く澄んだ美しさ。
その原料には「天草陶石(あまくさとうせき)」が使われています。
焼き上げると、まるで光を通すような上品な白磁となり、そこに呉須(ごす)と呼ばれる藍色の絵の具で絵付けが施される。
この染付(そめつけ)の深く穏やかな青は、どこか懐かしく、食卓をやさしく包み込むような美しさを持っています。
江戸の食卓を変えた「くらわんか碗」
波佐見焼が日本中に広まるきっかけとなったのが、江戸時代に生まれた「くらわんか碗(わん)」。
当時、磁器は高価で、庶民が手にするのは難しいものだったのだとか。
そんな時代に登場したのが、丈夫で壊れにくく、簡素ながら温かみのあるくらわんか碗なのです。
「くらわんか」という言葉は、淀川を行き交う船の上から、
「あん餅くらわんか、酒くらわんか(=食べないか、飲まないか)」と声を掛けていた商人の呼び声に由来するといわれています。
安価で実用的なこの碗は、全国へと流通し、庶民の食卓に磁器文化を広げたのだそう。
模様は簡潔で素朴ながら、どこか品のある佇まい。
華美ではなく、日常の中に静かな美を宿す――。
この“控えめな美しさ”こそが、波佐見焼が長く愛される理由のひとつでもあるんです。
海を渡った波佐見焼
くらわんか碗と同じく、波佐見焼の名を世界に知らしめたのが「コンプラ瓶(こんぷらびん)」。
江戸時代、長崎・出島を通じてオランダやポルトガルに向けて輸出されていた酒や醤油を入れるための瓶で、
“金富良商社(コンプラ)”の名に由来しているのだそう。
白磁に藍色で「JAPANSCH ZOYA(日本の醤油)」や「JAPANSCH ZAKY(日本の酒)」と描かれたデザインは、
当時の異国文化と日本の手仕事が交わる象徴のような存在だったのだとか。
やがてこのコンプラ瓶は世界中に渡り、
ロシアの文豪トルストイが書斎で一輪挿しとして使っていたという逸話まで残っています。
波佐見の小さな町で生まれた器が、海を越え、遠くの国の暮らしを彩る――。
その事実は、ものづくりに込められた力の大きさを教えてくれます。
日常の美として400年
波佐見焼は、高級品ではなく、あくまで「日常の器」として。
誰もが手に取れ、誰の食卓にも似合う――そんな器をつくり続けてきました。
それは、華やかさではなく“暮らしに溶け込む美しさ”を追い求めてきた、
日本人の感性そのものかもしれません。
これからも波佐見の町では、静かに、誠実に、
人の暮らしを支える器が生まれ続けていくのではないでしょうか。
